沖縄戦が始まるまでの太平洋戦争の流れです。沖縄は大本営にとって米軍の本土上陸を1日でも遅らせるための重要な土地だったのです。
| 月 日 |
ことがら |
詳細 |
| 1941年 8月 |
アメリカの対日石油輸出禁止政策 |
アメリカが日本への石油の輸出を全面的に禁止する。 |
| 1941年 12月 |
真珠湾攻撃 |
日本軍海軍部隊がアメリカの真珠湾に向けて攻撃をする。米艦隊は大きな打撃を受ける。 |
1941年 12月
〜翌年5月 |
南方占領 |
マレー、シンガポール、フィリピン、ビルマを日本軍が占領する。 |
| 1942年 6月 |
ミッドウェー海戦 |
ミッドウェー海戦で日本海軍が大敗するこれにより日本の軍艦は大幅に減少する。これを機に日本軍の連敗が始まる。 |
1942年 8月
〜翌年2月 |
ガダルカナル戦 |
ガダルカナル島をラバウル防衛のために海軍が築いた飛行場を米軍が占領したためこれに日本軍が抵抗するがすべて失敗に終わる。 |
| 1944年 6〜7月 |
サイパン島戦 |
サイパン島で、上陸した米軍と戦うが玉砕する。多くの現地住民が犠牲になった。これにより米軍は日本を空襲圏内におさめる。
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| 1944年 9月 |
ペリリュー島戦 |
強固な地下陣地を構築し米軍に抵抗するが敗北。この戦法は後の硫黄島戦に応用される。 |
| 1944年10〜12月 |
レイテ島戦 |
日本陸軍は大損害を被り海軍も米艦隊に敗北する。 |
| 1945年 2〜3月 |
硫黄島戦 |
ペリリュー島の経験を活かし地下陣地を構築して米軍の本土上陸を一日でも先延ばしにするために持久戦を展開するが最新兵器を駆使した米軍に敗れる。 |
| 月 日 |
ことがら |
詳細 |
沖縄戦の流れをつかんでおく上で重要なのが戦前史だ。
すでに沖縄戦の始まる1年前から沖縄戦の序章とも言えるほどの犠牲者が県内で発生している。
ここでは沖縄戦前史を詳しく書いておいた。沖縄戦とも深く密接することなので沖縄戦の経過を読む前に是非読んでおいてほしい。
@沖縄学童の県外疎開決定 (1944年7月7日)
1944年7月7日に政府は米軍の沖縄県への侵入に備えて沖縄の学童の県外疎開を決定した。
政府は県庁に同日深夜「沖縄島(沖縄本島)、宮古島、石垣島から老婦女を直ちに島外に引き上げさせよ」と打電した。疎開先は九州へ8万人、日本の領土である台湾に2万人輸送すると発表していた。
この県外疎開は日本軍の要望を受け入れた結果成ったもので、県民の輸送は沖縄県への兵士・物資輸送船の復路を利用する。
政府も同日にサイパン島の日本軍が玉砕したとの報告を受けこの発表をしたのだが、一番の問題は募集してもなかなか集まらないことだった。
県民の多くは米軍の潜水艦が潜んでいる危険な海を渡ってでも自分の子供を本土へ行かせることを望んでいなかった。それに本土へもし生行けたとしてもその後の生活ができるかどうかが不安だったのだ。
県はこれに対して映画を見せたり、家々を回って説得するなどしてなどして輸送人員の増加を狙ったがそれでもなかなか集まらなかった。
政府は1945年3月までに7万人の県民を輸送した。
疎開していた子どもたちが沖縄県に帰ってきは沖縄戦が終了した翌年である1946年10月であった。
- 8月10日:第32軍司令官・牛島満中将が着任する。
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A学童疎開船・対馬丸が沈没 (8月22日)
8月22日午後10時頃に学童疎開船・対馬丸が米軍潜水艦・ボーフィンの発射した魚雷が命中し沈没した。
対馬丸の沈没によって学童775人含む1418名の人命が犠牲になった。
犠牲になったのは6〜15歳の国民学校に児童で、対馬丸は沈没当時1786人の人命を乗せていた。
対馬丸は陸軍徴用貨物船で船長は西沢武雄、重量は6754トンあった。
対馬丸は米軍潜水艦・ボーフィンからの魚雷命中後、佐世保海軍司令地区に「22日22時15分魚雷攻撃を受けて、北緯29度32部、東経129度30分において損害を受けた」との無線を発信後沈没した。
対馬丸は8月21日午後6時35分に軍用船・暁空丸(6854トン)、和裏丸と船団を組み3隻合わせて約5000人を乗せ那覇港を出発し長崎へ向かっていた。船団の護衛には駆逐艦・蓮、砲艦・宇治(999トン)が付き添っていた。これらの船は米軍潜水艦の攻撃命中を防ぐために蛇行運転をし北上していた。
しかし翌日22日午後10時12分ごろ悪石島に近い北緯29度32部、東経129度30分付近で米軍潜水艦・ボーフィン(1525トンジョン・コーバス艦長)の2発の魚雷攻撃を受け沈没した。しかし対馬丸への魚雷命中後もこれらの護衛は救助もせずに航行を続行していた。
また米軍は対馬丸の他58隻の船舶を沖縄近海で沈没させているがこれは国際法(ロンドン海軍軍縮条約のこと。商船への無警告撃沈を禁止している。)に違反してしていたのだ。しかし米側は日本の真珠湾攻撃も国際法に違反している闇討ちだとして正当性を主張していた。
B米軍が那覇市に大規模な空襲を行う (10月10日)
米軍は沖縄県那覇市に1944年10月10日大規模な空襲を行った。(10・10空襲)
この10・10空襲には1396機の米軍機(米海軍第3艦隊所属の第38高速空母機動部隊)が5回にわたって飛来し合計541トンの爆弾を投下した。、それによって那覇市の建物は11000戸(約9割)が焼失し民間人を含む668人が死亡し768人が負傷した。海上でも潜水艦と空爆により民間船舶を含む約200隻が沈没した。
飛行場などの軍関係の建物だけでなく民間施設にも波状攻撃を9時間続けた。
また知れらの実質的被害だけではなく県民の1カ月分に相当する米や医薬品が焼失したりするなどして日本軍は多大な損害を受けた。
Cひめゆり学徒隊が陸軍病院へ動員 (3月23日)
沖縄師範学校女子部165名沖縄県立第一高等女学校56名の生徒(ひめゆり学徒隊)が教師に引率され黄金森(こがねむい)にある南風原(はえばる)にある、南風原陸軍病院壕へと動員された。
このころには外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められていて、現在この南風原陸軍病院壕の中では第三外科壕へと入壕し見学することが可能だ(案内人が付き添い)。また「ひめゆりの塔」があるのは伊原第三外科壕で入口のみを外から見ることができる。
当初はこれほど女学生が残るはずはなかった。なぜかというと軍に召集されたのは男子のみで女子は適用外であったからである。しかし彼女らを含む沖縄県民は疎開したくてもできない理由があった。それは本土に身寄りがいないことだった。
多くの沖縄県民は本土に知人を持っていなかったため本土での生活を心配し多くが疎開を希望しなかった。それに疎開できても疎開先が東北地方のため暑い場所に慣れている沖縄県民にとっては不利な機構であった多恵乗り切れるのか、という心配もあった。
本土で寒い思いをして死ぬよりは生まれ故郷の地で死んだほうが良い、と考えた人が多かったようだ。
そのため多くの若い命が沖縄の地に残ることとなり彼らの多くが望んでいたように本当に「沖縄の地で死ぬ」ことになってしまった。政府は疎開社に対して補償をすべきであった。それがあれば彼らは安心して疎開ができ、死傷者は一人でも減らせたのではないか、と私は思うのである。
主に彼女らひめゆり学徒隊の仕事は壕内での手術の立ち会い、患者への食事の配給、排泄の手伝い、患者の看護、食糧の供給、他の郷との連絡係であった。
とくに悲惨であったのは手術の立ち会いで、ここでいう手術とは現在でいう「メスで体を切開して患部を治す」というものではない。「それ以上傷口が化膿して病気を進行させないように体の部分を切断する」というものだった。たとえば足の怪我であれば足を切断するというものだ。
| 沖縄戦まで |
沖縄戦が始まるまでの太平洋戦争の経過です。 |
| 沖縄戦の経過 |
沖縄戦の経過です。 |
| 沖縄戦の後 |
沖縄戦の後の沖縄県の状態です。(現在作成中。) |
| 沖縄戦の動画 |
沖縄戦を撮影した動画です。(残酷な映像が含まれていますのすのでご注意ください。) |
| 参考文献 ホームページ |
沖縄戦についての記述がされている書籍の紹介です。 |
沖縄戦総記は、1945年の太平洋戦争の真っただ中に起きた沖縄戦について詳しく説明したサイトです。
沖縄戦体験者の体験談や関連情報も詳しく載せてありますので、沖縄戦について調べたい時はぜひ活用してください。
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