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ここからは沖縄戦の大まかな流れを見ていく。沖縄戦という戦いがどれほど残酷で悲しいものであったかは沖縄戦の流れ文章からは直接は読み取ることはできない。
しかし平和を理解する上では大変重要なことである。また沖縄戦の流れをさらに知りたい方は本を購入してさらに深く調べてみるとよいだろう。
@慶良間諸島上陸 (3月26日〜)
1945年3月26日の午前8時04分、米軍は沖縄本島西方の慶良間(けらま)諸島(下の地図を参照)の阿嘉島(米軍はこの島を「幸福なすみっこの島」と名付けている。)に無血上陸する。そして同日8時25分に慶留間(げるま)島に、9時21分に外地島に上陸した。翌日3月26日の午前9時に座間味島に、27日午前9時11分に渡嘉敷島に上陸した。
慶良間諸島の日本軍の兵器と言えば、350隻しか配備されていなかった海上挺身艇(かいじょうていしんてい 陸軍名:マルレ、海軍名:震洋)という特攻モーターボートと比較的恵まれた量の銃、砲くらいのものだった。
海上挺身艇は島の海岸、洞窟に隠していた。「海上挺身艇」とはいっても、零戦(零式艦上戦闘機)のように「まともなもの」ではなく、ベニヤ板を張ったモーターボートに150馬力の車のエンジンを取り付けて125kgの爆雷(指揮艦艇にはロケット砲も付いていた)を艦隊に当て爆発させ艦隊を沈没させる、というあまりにも無謀な攻撃方法を行うためのものだったのである。速力は21ノット(時速40km)まで出せた。
阿嘉島も座間味島も米軍は上陸時は日本軍からの抵抗はなかったが、中に進撃するうちに慶良間諸島での戦闘の中では手ごわいといえる反撃にあっている。(慶良間諸島では米軍は日本軍からの攻撃を受けていない。なぜなら日本軍は沖縄本島に部隊の大部分を配置しており、慶良間諸島を軽視していたからである。一時、慶良間諸島には2335名の日本兵がいたが、1944年末ごろの配置転換によって大部分が沖縄本島への異動を命じられた。これによって残っていたのは海上挺身艇の部隊300名と600名の朝鮮人労務者、100名の兵士だけだった。)
日本軍は慶良間諸島には上陸しないものと予想し作戦を立てていたため、この周辺には少数の部隊しか配備していなかった。
日本軍は当初、この海上挺身艇を使用して沖縄本島に上陸したアメリカ艦艇に背後から奇襲攻撃をしかけ、米艦隊に損害を与えるつもりでいたが、米軍が最初に慶良間諸島に上陸したことによって全く出撃する機会もなく自ら破壊する、または米軍に捕獲されるという結果になった。辛うじて出撃できたのは慶留間(げるま)島に配備されていた4隻に留まった。残りは日本軍により自ら破壊あるいは米軍によって破壊・捕獲された。
住民も同様にこれほど小さな島には米軍は上陸して来まい、と思い込んでいた。
しかし米軍は慶良間諸島が主要都市である那覇の対岸にあるという位置的に便利であることに加え島の海岸が軍艦の停泊に適した地形で面積も広いことがあり米軍はこの慶良間諸島を重要な地と見ていた。
米軍は数日で慶良間諸島を占領すると沖縄本島に向かった。
ちなみに慶良間諸島でも住民による集団自決が発生しているが、目立ったものとしては渡嘉敷島で起こった329名の集団自決の発生で、沖縄本島でのものと比べて多くの住民が米軍に投降している。ちなみに米軍が慶良間諸島全体で捕虜にした人は住民が1195名、日本兵が121名だ。
ここで非常に興味深い話をあげてみよう。
渡嘉敷島の日本軍は米軍が同島を占領した後にもなんとか密林などに逃げ隠れ潜んでいた。そして米軍に捕えられた日本軍捕虜が指揮官に降伏の交渉をしに行った。しかし指揮官はこれに応じず300名の兵士とともに「戦い続ける」ことを選んだ。
するとこの指揮官は「米軍が陣地と離れているところにいるのなら、アメリカ人が浜で泳いでいようと構わない。」と言ったそうだ。要するに「降伏」がしたくなかったのだろう。数カ月たったのち、天皇の終戦の詔勅(しょうちょく)の写しを見せられて初めて降伏した。しかしこの指揮官は負け惜しみからか「あと10年間は戦えた」と豪語していたという。10年なぞまったくもって無理な話である。
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A沖縄本島上陸 (4月1日〜)
慶良間諸島を足早に占領した米軍は4月1日、上陸3時間前の5時30分から戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、そして他の艦も含めた177隻が一斉に上陸する海岸に向けて約5万8千発の砲弾を撃ち込んだ。米軍はこれほどの砲弾を打ち込めば日本軍は全滅するだろうと考えていた。
艦砲射撃が一通り済んだあと米軍はとうとう8時30分に沖縄本島の読谷(よみたん)、北谷(ちゃたん)に上陸を開始する。
米軍は直後に軍政府を作り住民を収容した。
米軍は上陸部隊だけでも18万人いた。その他、工兵(戦場で道路、橋などを整備するための兵士。戦闘部隊には含まれない。)などを合わせると総兵力は54万人にもなった。 これは太平洋戦争最大の兵員投入である。海(東シナ海)には1300隻の米艦隊が浮かんでいた。
しかし上陸した際に米軍を驚かせたのは日本軍からの抵抗が全くないことだった。遠くで銃声が少しするだけで米軍には銃弾が一発も向かってこなかったのだ。その時は海岸があまりにも物静かなために「戦闘演習のような上陸」だったという。一部の米兵は上陸した日が4月1日だったためエイプリルフールなのかと思って上陸していたという。
しかしそれはエイプリルフールでも兵士の全滅でもなく日本軍の作戦だった。
日本軍は艦砲射撃をくらっても、決して反撃はするなと命じられていた。
日本軍はあらかじめ上陸地点を予想し陣地構築をしていた。 日本軍は上陸地点にはほとんど部隊を配置せず司令部である首里城一帯に兵力を集中させていた。つまり上陸地点付近では米軍を迎え撃つことをせずに首里付近の兵力集中地帯までおびき寄せ一気に攻撃を仕掛ける、といった作戦だったのだ。
そのため米軍は上陸5日後までは全く日本軍に出くわすことなく進撃をした。
米軍はその日のうちに読谷、北谷にある日本軍が保有していた読谷飛行、北谷飛行場の占領に成功する。 そう、日本軍は上陸地点どころか航空機の基地となる飛行場までを放棄していたのだ。米軍はその後それらの飛行場を整備した後、自軍の飛行場として利用する。(現在も読谷飛行場の一部は米軍の緊急用滑走路として利用されている。)
沖縄本島に米軍が上陸しているころ、沖縄半島の南東部の港川では米軍による上陸陽動作戦が行われていた。
この作戦は日本軍医読谷・北谷への上陸と同時に港川に上陸すると見せかけることによって日本軍の混乱を招くための作戦だ。
米艦隊は「本物っぽく」この作戦を行うために多くの艦隊を日本軍にわざと見えやすく海岸付近まで近付けた。これに対して日本軍航空隊は特攻機による攻撃を加えた。これによって輸送艦1隻、小型船艇1隻の被害を受けたがこの程度の被害は米軍にとっては大したことはなかった。米軍はこの作戦の後午後3時に引き返した。
日本軍は誇らしげに「敵は四月一日、沖縄南東部に上陸を試みたるも大損害を被り、計画は完全に挫折せり」と発表したのであった。この程度の損害が「大損害」だったら大変なものである。このようにして上陸陽動作戦は大成功した。
同日、米軍は沖縄本島を南北に分断する。
その後米軍は南と北の二手に分かれて日本軍を攻めていく。
首里城の地下壕にあった司令部では、今後の展開について八原博通(やはらひろみち)作戦参謀長が守勢を、長勇(ちょういさむ)参謀長が攻勢を主張し対立していた。守勢とは「首里の司令部に立てこもり戦闘をそこで戦闘を終了させること」で、攻勢は「南部に撤退し米軍の本土上陸を少しでも遅らせる」という作戦だ。もちろん、住民の被害の拡大という点を考えると守勢なのだが、当時の日本軍には「本土にいる大勢の国民を守るためには沖縄の住民という少数の犠牲はいとわない。」という思想が根付いていたためそのような意見が出るのは当時としては当たり前だったのである。
結局、長勇参謀長の強引によって攻勢に出るが、12日に打ち上げた信号弾が米軍に見つかり大損害を被った。それから守勢へ作戦転換をする。
- 4月3日:米軍が沖縄本島を南北に分断する。(その後米軍は南北に分かれ、進行を開始する。)
- 4月7日:日本軍の艦隊が特攻作戦(菊水作戦)によって出撃するが米航空機の猛攻撃によって失敗する。(戦艦大和は米軍機の3時間に及ぶ攻撃で沈没する。)
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B嘉数(かかず)の戦い (4月8〜24日)
嘉数は宜野湾(ぎのわん)村に位置していて高地が多く、日本軍はこのような土地に陣地を多く作った。
嘉数高地は標高70メートルの「西嘉数」と標高90メートルの「東嘉数」を持つ約1kmの稜線。 当時はこの高地は日本軍に「70高地」と呼称されていた。
日本軍はこの嘉数で米軍に敗北をすれば司令部のある首里の司令部が標的にされる可能性があるた戦力をここに集中させた。
日本軍は高地の斜面の反対側から敵を狙撃する反射面攻撃を多用し、地形を上手く利用した陣地構築(米軍戦車の死角を発生させるため)を行った結果米軍に2万4000人という被害を与える事が出来たのである。
日本軍はこの嘉数高地と、となりあう前田高地とに頑強な洞窟陣地やトーチカを築き、米軍を待ち受けていたのである。沖縄戦で初めて日本軍の本格的な抵抗を受けた米軍は、1日に100メートル前進するのがやっとであった。
実際に5日には嘉数戦の序章ともいえる戦いが、北隣の85高地にて始まっている。
この戦いが皮切りとなり、ついに嘉数で日米軍の主力が衝突することとなる。このときはまだ歩兵、砲兵戦闘が主であった。
中盤になると米軍側は戦力を増強し、戦車も続々と投入し始める。
終盤にもなると、米軍側は師団再編成や攻略に適当と思われる部隊(工兵など)、連隊の配備、歩兵戦力、戦車戦力の増強や作戦変更などを行い、再攻撃に備えた。
これに対し日本軍側は激しい戦闘が無い間に、情報網の整理、部隊配置換え、陣地再構築、部隊兵員増強、武器弾薬増強などを行い防備を整えた。この両軍の周到な準備によって、嘉数戦の終盤戦は前半戦にはなかったような熾烈さを極め、両軍に多くの死傷者を出した。アメリカ軍にとって日本軍の情報網整理は痛手で、これを活かした極めて組織的な戦闘により、進路を阻まれさらに苦しめられることとなる。大勢が決する23日までの間、終日嘉数の各戦線で熾烈な白兵戦、対戦車戦が繰り広げられ、嘉数戦のほとんどの死傷者、負傷者がこの終盤戦から出ている。アメリカ軍は、戦車に対する爆雷を抱え突っ込んでくる日本兵に苦しめられたという。
またこの嘉数の戦いでは対戦車戦も有名で日本軍は米軍の戦車30両中22両を破壊するという沖縄戦で最大の戦果を挙げている。
このように米軍と戦列な戦闘を行った結果、日本軍は3倍の敵に15日もの間持ちこたえ、大損害を与える事が出来た。
日本軍はこの15日間を用いて陣地の再構築、情報網整備、武器弾薬の搬入を行うことが出来た。
米軍は塹壕(ざんごう)、洞窟陣地からの攻撃に懲り、この後から火炎放射器を多数投入し陣地を焼き払う戦法に出る。
この戦闘によって米軍は2万4000人、日本軍は6万4000人の死傷者が出た。
米軍はこのようなあまりにも恐ろしいこの丘を「忌々(いまいま)しい丘」、「死の罠」などと呼んだ。
付近の前田高地も一週間ほどで陥落した
この嘉数高地、前田高地は首里の司令部を守る防衛線の中ではもっとも激しい戦闘が繰り広げられた地の一つだ。
ちなみにこの戦闘があった嘉数の地域は「嘉数高台公園」(下の地図を参照)として整備されていて、沖縄戦で亡くなった中国人の漢民族の386柱の遺骨が納められている「青丘之塔(せいきゅうのとう)」、京都出身の兵士を慰霊する「京都之塔」、この嘉数高地で戦った兵士を慰霊する「嘉数之塔」がある。展望台からは皮肉にも米軍の保有する普天間飛行場が見える。
この「嘉数高台公園」には日本軍が立てこもった地下壕の入口、コンクリート製のトーチカ(前面が砲弾によって破壊されている。中に入ることも可能。)が残されている。
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↓嘉数高台公園にある「青丘之塔」、「京都之塔」、日本軍のトーチカ
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C八重岳の戦い(4月14〜17日)
前述した通り日本軍は南部に戦力の重点を置いていたため北部は手薄だった。
そのため米軍はかなりの速さで北部を掃討していく。
しかし日本軍はこの北部でかつ本部半島唯一の強力な山岳陣地である八重岳に強力な戦力を配備していた。
米軍はこれらを掃討するのに八重だけ以南後に潜伏していた日本軍を掃討していたためどこからも妨害されることもなく八重だけの攻撃に集中することができた。
米軍は手始めに4月14日に八重岳の東部を攻撃した。しかし日本軍は米軍に「卑怯な」戦法をとってきたのだ。
日本軍の兵士は米軍兵士が近くを通り過ぎてもすぐには攻撃をせず通り過ぎてから背後意表を突く攻撃をしてきたのだ。
特にこの戦法では指揮官がよく狙われた。なぜなら指揮官は指揮棒や地図、双眼鏡を持っていてあまりにもわかりやすかったからだ。そのため兵士は指揮官ではない兵士にこれらのものを持たせて指揮官は兵士に紛れ込んで進軍していた。
4月16日の朝方に米軍はとうとうこの八重岳の頂上を占領し日本軍の陣地に突撃をした。その結果日本軍は戦士あるいは逃走した。
しかし夕方になってくると別に峰から闘争に成功した日本軍が攻撃準備を整えているのが見えたため米軍は攻撃をした。同時案の定、午後6時50分日本軍が突撃してきたが攻撃を予測し構えていたため100名の日本軍を殺し頂上を守備することに成功した。
しかし頂上は占領しても山全体を占領できたわけではないのでいつ隠れている日本軍が夜襲をかけてくるかわからないので米軍は引き下がって夜を明かすことにした。
4月17日には偵察していた米軍の銃火によって700名の日本軍の戦死者を出した。
これらの本部半島を主とした戦闘によって日本軍は戦死者236名、米軍は236名、負傷者は1061名行方不明7名だった。(この情報は米軍が算出した数のため正確ではない。)
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D伊江島の戦い (4月16〜21日)
伊江島は本部(もとぶ)半島の北西9kmに浮かんでいて、沖縄本島に周辺の島に比べると比較的大きな島だ。
島の北海岸は約60mの断崖絶壁が続き、中央には先の標高172mの岩山「城山(タッチュー/ぐすくやま)」がそびえている。その山麓から北の海岸にかけては1250haの平地が続いている。日本軍は主にここに陣地を築いていた。
1942年8月、日本軍は伊江島に全長2000mの滑走路2本の飛行場の建設を始めた。工兵隊はもとより働けるすべての島民と朝鮮人労働者を加え、一日2500人の労働力を動員した。その結果、2本目の滑走路もほぼ完成する。 この巨大な飛行場は「東洋一の飛行場」と呼ばれるほど巨大なものであった。
伊江島は10月10日に大規模な爆撃(10・10空襲)を受け、1945年1月22日の二度目の爆撃では、主要な建物のほとんどが破壊されてしまった。
そして米軍による上陸が迫ってきたことを察知した日本軍は、米軍による占領に備えて完成したばかりの滑走路を破壊した。
米軍は4月16日から始まった艦砲射撃の後、16日に伊江島に上陸をした。
そして一週間に及ぶ戦いの末、日本軍はほとんど全滅し、戦死者4706人にのぼった。そのうち約1500人は地元の住人だった。 現在の伊江島中学校の周囲には「学校陣地」が作られ、死闘の現場となって「血塗られた丘」と呼ばれている。
- 4月18日:米従軍記者のアーニー・パイルが伊江島で戦闘に巻き込まれ死亡する。
- 4月19日:米軍が宜野湾(ぎのわん)・浦添(うらぞえ)の防衛線を突破する。
- 4月27日:真和志村(現那覇市)真地の県庁壕で南部地区市町村長会議が行われる。
- 4月29日:4月12日の総攻撃失敗を受けて司令部にはこれからの動きについて、攻勢に出るか守勢に出るかで意見の対立が起こっていた。そのためこの日、幕僚会議が行われ牛島司令官が総攻撃を決定した。
- 5月1日:件、県民の士気鼓舞と食料確保のために「後方支援挺身隊」を編成する。
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D日本軍の総攻撃失敗 (5月4〜5日)
日本軍は5月4日から5日にかけて浦添(うらぞえ)村や西原村に進攻した米軍に、総攻撃を実施した。
日本軍は4日午前4時50分から米軍陣地への攻撃を開始し、約1万3000発の砲弾を撃ち込んだ。午前5時以降には西原村の翁長、小波津、棚原、浦添村の前田などの米軍陣地を襲撃した。
しかしこれらの作戦は米軍による反撃によって撃退される。翌日に行われた作戦も失敗に終わった。
5日の失敗を受けて同日の午後6時に牛島中将は作戦中止を命じ、作戦は終了した。
この総攻撃により日本軍の戦力は3分の1までに低下してしまい、敗北は決定的になる。米軍は約700人が、日本軍も約5000人の兵士が死亡した。
この結果を受けて大本営も「今後の沖縄作戦の見通しは不可能」とした上で「これに多くの期待をかける事自体無理」としている。これは大本営が完全に沖縄の作戦を放棄し、沖縄を見放したということに他ならない。
- 5月6日:「後方支援挺身隊」の本部が豊見城(とよみぐすく)長堂の壕へ移動し活動を開始する。
- 5月7日:米軍占領下の石川に初の学校・城前初等学校が開港する。
- 5月10日:伊江島に米軍が航空基地を建設する。(現・伊江島空港)
- 4月26日:前田高地戦闘開始。
- 5月3日:第32軍司令官牛島中将、日本軍の攻勢を指示
- 5月6日:前田高地が陥落する。
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E安里(あさと)高地の戦い (5月12〜18日)
安里高地は首里の北の安里にある、標高が20メートル、長さ270メートルの小高い丘だ。
日本軍は「52高地」、米軍は「シュガーローフ(sugar loaf)」と呼称していた。
「シュガーローフ」の名前の由来は戦闘後にこの高地の土が剥け、石灰岩が露出して砂糖をまぶしたように表面が白くなっていたためである。
この安里高地の南側には馬蹄形をした「ホースショアヒル」があり、東側には「ハーフムーン」と呼ばれる丘があった。これらの3つの丘の防御陣地は互いに補間する形で、高度に要塞化され、地下に掘られたトンネルで繋がっていた。これによって身を隠しながらの攻撃と同時に援軍を送ることが可能になった。それに加えて、一帯は首里高地の日本軍砲兵隊から見通しが効いたため、米軍は常に激しい砲撃に晒されながらの戦闘を余儀なくされた。そのため米軍はこの場所の攻略に困苦する事になる。米軍はこれに対抗するために火炎放射や手榴弾を用いて壕を破壊、爆破した。
日本軍はこの場所を突破されると、那覇市外を掌握され、首里にある司令部の裏側に回られ、包囲される可能性があるため、兵力を惜しむことなく投入した。ここでも嘉数同様、反射面攻撃を多用する。このため、米軍はこの丘の攻略に6日間を費やす。米軍は首里は高台にあったため正面からではなく日本軍の首里東西の防御陣地を突破して包囲し、孤立させ降伏させる作戦だった。
米軍は5月12日、周囲からの砲撃を受けながら安里高地の頂上に到達する。しかし日本軍の猛烈な砲撃によって追い返されふもとまで退却せざるを得なくなっている。
5月14日、海兵隊は安里高地の北にあるクイーンヒルを占拠し、攻撃をおこなった。日本軍の抵抗は激しく、闇夜の斬り込み隊により15日には米軍兵士は20名にまでなっていた。
5月16日、米軍は兵力を増強、再度攻撃するも、日本軍の熾烈な接近戦により敗退、前線を後退した。
5月17日、米軍は安里高地の西側にあるクレセントヒルを攻略、頂上を制圧したが、再び日本軍の 猛攻撃により撤退を余儀なくされた。その後二度目の頂上制圧も失敗、3度目でようやく日本軍を撃退したが陣地を維持するだけの余力は残っておらず、一旦撤収することになった。
5月18日、米軍は砲兵隊の援護射撃を受けながら安里高地を猛攻撃、ついに陣地を占領することに 成功した。
丘は一週間で11回も敵味方が変わり、一日に4回も変わった日もあった。それほど日本軍の抵抗は激しかったということだ。
この敗北によって日本軍は首里にある司令部の包囲の危機に陥った。
この戦闘で米軍は2662人の戦死者と1400人の戦闘疲労者を出した。米軍はこの戦闘疲労者を治療するため、特別に専門の野戦病院を設立しなければならなかった。
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F日本軍の首里(しゅり)放棄 (5月27日〜)
安里高地陥落後、日本軍では今後の動向について3つの意見が提出された。
それは、
- 喜屋武地区へと撤退する。
- 知念(ちねん)半島に撤退する。
- 首里に拠り、最後まで徹底抗戦する。
の3つだ。
第六十二師団の上野貞臣参謀長は配下の将兵の大部分が首里戦線で戦死したうえ、首里洞窟陣内には後送困難な何千人もの重傷者がいるので、最後まで首里で戦うべきだという長(ちょう)参謀総長寄りの意見を述べた。
第二十四師団の木谷美雄参謀長と軍砲兵隊の砂野高級部員も喜屋武(きやん)方面への撤退案を主張した。
また、独立混成第四十四旅団の京僧参謀は、喜屋武地区ではなく、知念半島方面への撤退案を支持した。
海軍を代表して会議に参加した中尾参謀はとくに意見を述べなかった。
5月末の軍団長会議では島田叡沖縄知事も同席しており、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁(まぶに)に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と撤退に反対していた。
戦争そのものを維持できる状態に無い状況で、いまさら部隊が本土上陸の時間を数日延ばすことに成功したとしても、大きな影響はない。
しかし牛島司令官は「第三十二軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と説いて会議を締め括った。
その結果、 5月22日に牛島司令官は日本軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを決断するにいたった。
そして日本軍は27日に撤退を開始する。(海軍は撤退反対の主張を続け、海軍の司令部がある小禄(おろく)に留まる。)
守備軍首脳陣は周到な撤退計画を練り、いくつかの小隊に分かれて南下した。第三小隊までは摩文仁方面へと直行したが、牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らを含むやはり五十人の第五小隊は、ひとまず津嘉山に立ち寄り、一時的にそこを戦闘司令部にすることにした。司令部撤退と前後して、第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下、翌日の二十八日までには首里最前線に布陣していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も、津嘉山の戦闘司令部に合流するため撤退を開始した。
結局、首里城地下の日本軍陣地は地下壕を構築して持久戦を図ったが、2ヶ月と持ちこたえることはできなかった。
米軍が日本軍の喜屋武方面への撤退に気づいたのは、撤退開始後かなり時間がたってからだった。
5月29日に米軍が首里城址に突入したとき、首里の司令部は既にもぬけの殻になっていた。もし首里で日本軍が玉砕しておれば、日本兵約9万6000名のほとんどが戦死していたかもしれないが、10数万人にも及ぶ沖縄住民や現地動員防衛協力隊員の死は避けられていたかもしれない。
首里の放棄によって南部の直径7キロメートルの中に3万人の日本兵と10万人の住民が押し込められた。
日本軍はこの時点で戦力の3分の1を失っていた。結果的にこの南部撤退は沖縄戦における住民犠牲をさらに増やすことになった。(南部は住民の避難場所や陣地となるガマは少なかったが陣地壕が数多くあり食料が豊富だった。)
- 5月27日:日本軍が南部へ撤退する。
- 5月31日:米軍が首里を占領する。
- 6月10日:アメリカ軍の司令官のサイモン・ボリバー・バックナー中将が牛島司令官に向けた投降勧告を書簡で行う。
- 6月12日:沖縄県の日本軍に向けた、降伏勧告ビラを3万枚散布する。
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G海軍司令官・大田実(おおたみのる)少将が小禄(おろく)の司令部で自決 (6月13日)
小禄は豊見城(とよみしろ)市にあって那覇市の南、那覇空港の近くの場所である。小禄がある小禄半島は幅3キロ、長さが5キロある小さな半島だ。ここには海軍の司令部がおかれ駐屯している兵士はほとんどが海軍であった。海軍の司令官は大田実中将だった。
ここにいた海軍(日本海軍沖縄方面根拠地隊)には1万名の兵士が存在していたが正規の軍人は3分の1程度しか存在しておらず残りは現地で招集した兵士だった。さらにその中で陸地の訓練を受けたのは2、300名にとどまっておりどれだけ海軍が弱かったかがわかるだろう。しかしその半数は海軍が小禄で米軍と戦う頃には半分ほどに減少しており長くは抵抗できない状態でいた。(第37魚雷整備隊は兵士が銃の数より3倍多い始末だった。)
そこで大田少将は残存兵力5000名の内、2000名を小録に残し3000名(彼らはその後、八重瀬岳、与座岳戦線で戦った。)を南部へ撤退させる案を打ち出した。それは、無駄に小録の地で鉄砲すらもっていない兵士を死なすことは耐え難く、少しでも長く生き延びてゲリラ戦で終戦まで持ちこたえて欲しいとの願いからである。
日本軍は陣地と言えば那覇飛行場(別名:小禄飛行場。現在は那覇空港として利用されている。)くらいしかなく重要な地であった。しかしその地でしか戦えないとはいえ飛行場自体がとてつもなく巨大であった。なぜなら飛行場周辺には丘陵地といえるほどの土地はなく陣地としては向いていなかったからだ。平地には地雷が多く敷設してあった。
6月4日午前4時45分から米軍は1時間にわたり4300発の予備砲撃を加えた後、小禄半島の北側に上陸を開始した
米軍は4日の終わりごろまでに1700メートルほど進軍したがここで日本軍の猛烈な抵抗に遭った。ここで日本軍が使用した火器は機関銃や大砲などさまざまだった。
米軍は上陸後、奥武山(おおのやま)を占領した。米軍は4日の終わりごろまでに1700メートルほど進軍したがここで日本軍の猛烈な抵抗に遭った。ここで日本軍が使用した火器は機関銃や大砲などさまざまだった。 これらの機関銃の多くは飛行機から分離させて作った。
海軍は先ほども述べたように戦力となる兵士の一部を避難させていたため、戦力は少数だった。そのうえ訓練もろくに受けていない兵士たちがこの地で10日間も戦ったことを思うとこの戦闘がどれだけ苛酷であったかがわかるだろう。そのため、付近の陸軍と協力して闘っていた。
5日には米軍は4日に比べて4キロ近く進撃しており具志村落まで接近することができた。しかし米軍はここで日本軍の激しい攻撃に遭った。さらにここには前述したように地雷が多く敷設してあったのと泥が地面を覆っていたために戦車の進行ができなくなり使用することが出来なかったためと激しい砲火によってここで2日間費やすことになる。
6日には日本軍は全地域にわたって切り込みを実施したが失敗し200名の死者を出した。
しかし米軍の激しい砲火に10日には日本軍は幅900メートル長さ1800メートルまで追いつめられた。
とうとう米軍は11日7時45分に総攻撃の命令を出し最後の作戦に入った。ここでは晴天のために地面が乾いていたため戦車を動員した。そして午後1時30分筆架山の62高地が陥落しその後同地域にある53高地も陥落した。
12,13両日には159名の日本軍兵士が投降してきた。捕虜の兵士としては最多の数だった。
こうして小禄での戦闘は終結した。
この10日間での米軍の損害は1609名。首里付近戦線での損害としては最大のものであった。
6月6日、大田司令官は本土の海軍次官へ向けて電文を打つ。 それは住民が戦闘に献身的に協力した事、後世に渡る国の住民への配慮を訴えたものだった。この電文は彼が住民を戦闘に巻き込み、多くの犠牲を出した事への悔やみの文章だったのである。
次の文章はその電文の全文である。
発 沖縄根拠地隊司令官宛 海軍次官 左ノ電ヲ次官ニ御通報方取計ヲ得度 沖縄県民ノ実惜ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既二通信力ナク第三十二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ルニ暇ナカリキ 然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ 家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃下???風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ビ、挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮、敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ 身寄無キ重傷者ヲ助ケテ??真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ワレズ更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ自給自足夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレテ 御奉公ノ??ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ〔数文字不明〕コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島実情形〔数文字不明〕一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄縣民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲそして6月13日、海軍司令官の大田実少将を初めとする幕僚が司令部壕で手榴弾で自決をする。
この壕ではほかに200名以上の死体が発見された。
- 6月18日:沖縄県知事、警察部長が6月2日、荒木退造警察部長とともに摩文仁の壕を出たきり消息を絶つ。(「足を負傷して横臥している知事と会い、翌日壕を訪ねると小銃で自決していた」という元兵士の証言もある。) 同日、日本軍がひめゆり学徒隊に解散命令が出る。
- 6月19日:日本軍が鉄血勤皇隊の解散を命じる
- 6月20日:大本営が沖縄の日本軍の玉砕を発表する。
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H牛島中将、長勇参謀長が摩文仁(まぶに)で自決 (6月23日)
南部へ撤退した日本軍(第32軍)は具志頭-国吉台地に至る絶壁に洞窟陣地を築き抵抗していた。
しかし米軍の激しい攻撃にろくに抵抗できず敗北した。
そして6月19日、最後の戦闘命令「全軍将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり。爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」を発した後、決別電を参謀次長及び第10方面司令官あてに発電した。
6月21日、陸軍大臣及び参謀総長から軍司令官宛に訣別電報が到着した。これにより米軍第10軍司令官シモン・バックナー中将が6月17日真壁付近で戦死した事が判った。
この報を聞き司令部幕僚は、牛島司令官の自決に先立ち判明した事を悦んだが、司令官は少しも嬉しそうではなく、むしろ困った様な感じがして幕僚は人間的に偉い方だなと改めて思ったという。
6月22日、司令部衛兵も米軍の攻撃で全滅する等があり、山頂奪回の突撃計画は中止し海に面する杭道口外で23日早朝自決する事に決した。
そして6月23日、牛島満司令官、長勇参謀長は摩文仁の司令部壕出口で銃で自決する。
なお、八原博通大佐は牛島司令官、長参謀長の自決を見届けた後、沖縄戦の戦況報告のために生き残り脱出を試みたが、米軍の捕虜となった。 八原大佐には沖縄決戦―高級参謀の手記(現在は絶版になっている。国立国会図書館で借りることができる。)という著作がある。
航空参謀の神直道大佐も大本営報告の命令で飛行機で本土に脱出して生き残っている。
下の電文は牛島司令官が決別電を参謀次長及び第10方面司令官あてに発した電報の全文だ。
大命ヲ奉シ挙軍醜敵撃減ノ一念ニ徹シ勇戦敢闘茲ニ三箇月全軍
将兵鬼神ノ奮励努力ニモ拘ラス陸海空ヲ圧スル敵ノ物量制シ難ク戦局正ニ最後ノ関頭ニ直面セリ
麾下部隊本島進駐以来現地同胞ノ献身的協力ノ下ニ鋭意作戦準備ニ邁進シ来リ敵ヲ邀フルニ方ツテハ帝国陸海軍航空部隊ト相呼応シ将軍等シク皇土沖縄防衛ノ完璧ヲ期セシモ満不敏不徳ノ致ストコロ事志ト違ヒ今ヤ沖縄本島ヲ敵手ニ委セントシ負荷ノ重任ヲ継続スル能ハス上陛下ニ対シ奉リ下国民ニ対シ真ニ申訳ナシ
茲ニ残存手兵ヲ率ヰ最後ノ一戦ヲ展開シ一死以テ御詫ヒ申上クル次第ナルモ唯々重任ヲ果シ得サリシヲ思ヒ長恨千載ニ尽ルナシ
最後ノ決闘ニ当リ既ニ散華セル麾下数万ノ英霊ト共二皇室ノ弥栄ト皇国ノ必勝トヲ衷
心ヨリ祈念シツツ全員或ハ護国ノ鬼ト化シテ敵ノ我カ本土来寇)ヲ破摧シ或ハ神風トナリテ天翔ケリ必勝戦ニ馳セ参スルノ所存ナリ
戦雲碧々タル洋上尚小官統率下ノ離島各隊アリ
何卒宜敷ク御指導賜リ度切ニ御願ヒ申上ク
茲ニ平素ノ御懇情、御指導竝ニ絶大ナル作戦協力ニ任セラレシ各上司竝ニ各兵団ニ対シ深甚ナル謝意ヲ表シ遙ニ微衷ヲ披瀝シ以テ訣別ノ辞トス
矢弾尽キ天地染メテ散ルトテモ魂還リ魂還リ皇国護ラン
秋ヲモ待タテ枯レ行ク島ノ青草ハ帰ル御国ノ春ヲ念シツツ
- 6月21日:米軍が勝利宣言を行う。
- 6月22日:藤岡武雄中将第62師団長、中島徳太郎中将軍歩兵第63旅団長が共に自決し、参謀長以下もこれに従った。
- 6月23日:掃討作戦が開始される。
- 6月26日:米軍が久米島に上陸する。
- 7月2日:米軍が沖縄の作戦の終了宣言をする。
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I南西諸島日本軍が降伏 (9月14日)
日本側代表団と連合国側代表は9月2日に東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、日本と連合国の武力による交戦状態は終結した。日本代表は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国側代表は連合国軍総司令部最高司令官(GHQ)のダグラス・マッカーサー最高司令官らが出席した。
沖縄での降伏文書への調印は9月14日に沖縄県越来村森根の米第10軍司令部前広場(現在の嘉手納基地内)で行われた。
調印式には南西諸島の日本軍代表として宮古島から第28師団司令官・納見敏郎中将が、奄美大島から独立混成第64旅団長の高田利貞少将が、海軍の沖縄方面根拠地隊から加藤唯雄少将の3名が出席し、米軍は第10軍司令官ジョセフ・W・スティルウェル大将が出席した。
この降伏調印以降、慶良間諸島の日本軍は武装解除された。米軍は既に4月から沖縄本島で日本の行政権を停止し軍政を開始していた。 南西諸島の日本軍の降伏調印によって、北緯24度以北、同30度以南の南西諸島全域を日本から分離し、米国の直接支配が始まった。宮古、八重山群島は 1945年12月から軍政が施行された。
戦後、沖縄はアメリカ軍の支配下に入り、日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。それに先立つ1965年4月9日琉球立法院は6月2日を「慰霊の日」と定め(返還後の1974年10月には県議会で制定)、現在は毎年その日に摩文仁の平和祈念公園において追悼式典が行われる。
米軍に投降した住民は保護され収容所に収容された。しかし収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、食糧がすべての住民に行き渡らなかったために起こった食糧不足のために飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった。
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